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●1958年2月、東京の品川で、油絵画家の芸術家の父と働き者の平凡な母の家庭で一人っ子の長男として生まれる。血液型はB型。
平凡な母といっても売れない芸術家の妻はパートで家計を支えるために相当の苦労をしていた。
●50年以上たった2009年10月母が他界した後に実母と兄弟がいることが判明。出身は静岡県であることもわかった。
●勉学に興味を持つ → とにかくやってみる → 成果が出る → 楽しくなる → さらに工夫してみる → どんどん成績が上がる → 三昧の状態
になるという得意のスパイラルがあることを実感する。
●受験した高校はことごとく合格したが、自分が入学する高校は都立小石川高校しかないと勝手に思い込んでいた。
(当時は学校群制度のため合格しても希望がかなうとは限らなかったのに・・・)
高校では激しいスポーツにトライしようとサッカー部に入部を希望したが、中学時代からの経験者が多数入部を希望していたので、
競争を勝ち抜くのがかなりたいへんではないかと勝手に判断して入部を断念する。
●替わりに東京都3位という申し分ない実績を残しているが、スポーツとしては楽そうに思えたバドミントン部にクラスの同級生と一緒に入部する。
(後日、とんでもないハードなスポーツであることを嫌と言うほど実感する)
●大学は先輩を追っかけて北海道大学を目指すが、2度とも相手にされず、2浪。浪人中、全国予備校対抗模擬試験で3000人中7位の成績をとる。
北大当確どころか一橋大学も射程圏内に入ると言われ有頂天になる。本番の入学試験ではことごとく敗れ去り、ようやく六大学のひとつ法政大学に滑り込む。
エリート意識がもろくも粉砕されてまたもや挫折感を味わう。
●失意の中、大学に入学。伯母のアパートアルバイトと大学のつまらない講義の往復に明け暮れた。大学2年の学園祭の際、
当時としては珍しくクラスのかなりの有志(語学だけ一緒になるクラス)の模擬店を出店することに奔走する。
●大学での講義にはまったく興味はなかったが、唯一、国際政治経済の中で第三世界の南北問題を扱った土生長穂(ハブ
ナガホ)教授に師事、ゼミナールのゼミ長として2年間、必死に研究に打ち込んだ。学園祭への出店の経験を活かしてゼミではじめて模擬店ハブ忠を立ち上げる。
(その後、ゼミの伝統として教授が退官するまで続いた)
●大学在学中、ゼミの研究と北海道大学インド哲学を専攻していた友人の影響を受けてはじめて長期一人旅の海外旅行(3ヶ月)でタイ・インド・スリランカの
渡航を決行する。
この経験により、グローバルな世界で海外でバリバリ仕事をしてみたいという進路が確定した。
大学4年の夏に父親が胃がんで他界する。ようやく画家としての才能が開花し始め、好きな仕事だけに集中できる環境になっただけに人生の諸行無常を感じる。
●就職は総合商社を中心に海外駐在でバリバリ仕事ができる企業を志望したが、ここでもことごとく惨敗、3度めの一敗地に塗れる。
ようやく12月になって小さいながらも社宅を所有する専門商社に就職が内定。卒業式を終えた3月末突然、内定取消を告げられ、どん底に突き落とされる。
初任給の3ヶ月分の違約金を豪遊して1ヶ月で使い切る。
5月より何とか旅行会社に採用される。当時としては中規模な旅行会社であったが、時代の要請にうまくはまり、勢いが感じられた。
●社会人になってから趣味としてテニスを始める。仕事は営業を中心に添乗業務など足掛け9年間、サラリーマンを経験する。
コンピュータの導入期に率先してオペレーションを行い、非常に興味をもつ。
●1986年9月、銀行勤務の現在の妻と結婚。翌年、長女が誕生する。家庭を持つことによってさらに仕事に責任を感じる。
1991年の湾岸戦争のときに独立を決意して、会社の先輩と共同経営で比較的大手の旅行会社のフランチャイズとして旅行業で生計を立てられるようになる。
●大学時代の南北問題を研究した経験を活かして第三世界の発展途上国の現状を実感するための研修ツアーを大学の教授と学生、出版会社、
労働組合向けに企画して実績を上げる。
独立後、週2回地元、横浜のテニスクラブでテニスをして体を鍛える。
営業の現場の仕事を中心に多いときで年間10回(100日間)以上添乗員として通算、30カ国、200回以上の
海外渡航を経験する。(渡航先はアジアを中心に、発展途上にあるエネルギッシュな国々)
●1992年2月、フィリピンの研修旅行で10日間添乗中、野菜なし肉漬けの食事がたたり、痛風になる。足を引きずりながら苦痛を隠して
添乗業務をやりぬく。
それ以来、懲りない痛風持ちとしてときどき足の指の激痛と戦いながら立ち上がっている。
●1995年の早々、子どもがいない叔母がすい臓ガンのため静岡で入院。急遽、駆けつけるが、地方病院の設備に愕然する。すぐに東京の虎ノ門病院
に転院させる。(すでに夫を亡くしている)手術は一応成功するが、5年以内に転移する可能性は極めて高いと医師から告げられる。その年の春、伯母が退院するも
1年もたずに他界。
●1996年4月、年商150億を越える会社から資金を出してもらって、社員8名の旅行会社のNo.2(実務上の役員)として転身せる。
2年目から単年度で黒字になる。
●1997年5月、親会社が会社更生法により実質、倒産状態になり、翌年の3月、社長が夜逃げをして実質、倒産する。
倒産による借金は持ち逃げされたお客様の入金分と会社の資金繰りのためのカードローンだけであったが、2度目の大きな打撃を受ける。不屈の精神で立ち上がり、
尚も旅行業で生計を立てる。
●1998年インターネットのWebサイトをはじめて体験し、頭をぶち抜かれるような衝撃を受ける。
●2000年4月、一年がかりで日本テニス協会公認C級テニスコーチの資格を取得する。
2001年4月、自分への投資と考え、レーシック手術を敢行して両眼の視力を0.1から1.5に回復させる。
●その年9.11米国同時多発テロが発生して、旅行業界はかなり打撃を受ける。
2003年のイラク戦争、SARSなどの国際情勢に影響をモロに受ける体質と海外旅行の大衆化がもたらす価格破壊の業界に嫌気がさし、古いビジネスモデルからの
脱却を試みる。
●情報起業家(インフォプレナー)の育成と振興を目指し、自身の情報企業家としての真価を発揮すべくインターネットビジネスに特化したポータルサイトを立ち上げようと
コンテンツの充実に努める。
●2005年4月、資金が続かず、ビジネスパートナーとも別れてサイトの公開も断念する。コンテンツのさらなる充実に努め、インタラクティブな
Webサイトの公開に全力を傾注するために同年8月より3ヶ月間、公共職業訓練のネットワークコンテンツ科においてCSS(スタイルシート),PerlによるCGI,Javascriptの
基本的な知識を修得して実践する。
●2006年7月七転八起、九倒十復の精神で株式会社グローバルインフォメリットを設立。amazonのマーケットプレイスを中心にユーズド書籍の
ネット販売で実績を上げる
とともに、情報起業家としての真価を発揮すべくインターネットビジネスに役立つツルハシ&シャベル(必須ツール)を紹介する極の情報起業家向けポータルサイト
を立ち上げる。同時に東京の赤坂に事務所を新設する。Webマーケティングを活用して複数の収入の流れを得ている。
●30代から40代にかけて30ヶ国、100回以上に及ぶ海外渡航を経験。国際的視野を持ったバランス感覚は類まれなものをもっている。また、
自己実現のための充電期間に読破した書籍は1,000冊を超える。書籍の種類はビジネスのマインドを培うための成功法則や自己啓発関係、マーケティング、
インターネット関連まで多伎にわたる。得た知識(ノウ)を実践・実行(ハウ)にしていくために、情報起業家として現在も日々、自己研鑽のための投資をしている。
●2010年6月横浜の馬車道に本店移転する。
●2011年3月経営革新による事業の再構築を決行する。身の丈に合った個人事業者として横浜希望ヶ丘に事務所を移転。職住近接とノマド(遊牧民的)ワーキングを身をもって実践、現在に至る。
名刺の裏に印刷している。(下記にて内容参照)
■最後に私のライフワーク: 人が本来持っている無限の力を解き放ち、人生においてすばらしい成功をおさめるためのお手伝いすること。
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